いろいろなダビデを撮る


ダビデのいろいろを撮って
それをどうにかしたら、何かになるんじゃないか。
そんな安易な考えからとりあえず食べるダビデを撮ろうと
カメラを置きます↑

正直言えばですよ、同じ撮影なら若い女の子を撮りたいですよ、
それならこっちも心が弾むじゃないですか。
撮るってことはですよ、編集するってことですから、
そのあいだずっとダビデを見なくちゃならないんですから。

これが若い女の子だったらですよ、
編集中ずっとやましい想像とか、どんよりとした欲求が
湧き上がるわけですが、
相手がダビデですから、
映る映像に対してなんの欲も、なんの感情も動かない。
自然に「無」の境地に達するわけですな。

修行僧が座禅を組んで編集してるのと同じなわけですよ。

となると完成品は「無」なわけです。

人間は常に、「在ろう」する生き物ですから、
「無」の行為は生物としてのヒトから脱しようとする行為なのです。


あぁ、なるほど、こんな風に言うと実に哲学的に聞こえる。