未来を変えにきた男 その木曜日


思い出すのは妻が出て行った情景だ。
いつものように家に帰ると玄関から異変が漂う。
あるはずの玄関の靴箱の上にある陶器の鍵入れがなくなっている。
あるはずの色とりどりの傘が傘入れからなくなっている。
あるはずの…
あるはずのモノがなくなっていて、それが何を意味をするのか答えがでるまでに数分かかる。
俺は深い穴の中に一人でポツンと座っている。
穴の中は暗くて何も見えない。
自分が目をつぶっているのか、開けているのか分からないくらいの暗闇の中で
俺は必死に声を出そうとしている。
それでも声は出ない。声を出そうとすれば陰気な悪魔が溜息をつくような吐息しか出ない。
両手で喉を掴み、目を見開き、助けを呼ぼうとする。
「誰か…誰か、助けてくれ」
声は出ない。
きっと誰も俺を助けてはくれないんだろう。

妻が言う
「あなたはきっとそういう風にしか生きられないんだわ」
ある晩ベッドで俺に背を向けながら、聞こえるか聞こえないかのトーンで言った妻の声が耳に残る。
残響は穴の中で響き、俺は声すら出せない中で目を静かに閉じていく。
それも暗闇の中では自分の動作すら確認できやしない。
諦めて穴の中で体を横たえようとしたところに、上から声が聞こえる。

「そろそろ起きてください。ここでご飯を食べましょう」

俺はいきなり現実に戻った。
未来からきたと言う黒いタイツの男。
俺の未来に降りかかる災悪を、こいつが振り払ってくれるらしい。
俺は誰にも助けてもらえないが、こいつは俺を必要としている。
変なものだ。

「俺、寝てたんだ。すげぇイヤな夢だったなぁ。」
一体どれくらい寝てたんだろう。
覚えているのは津田沼で銃撃戦を行い、追っ手の車を奪い逃走したこと。
ロボと名乗るこいつの肩口から血が流れていたこと。

喉は枯れ草を無理やり突っ込んだように、カラカラに乾いていた。
車のサイドボードにはヤクザが飲みかけたペプシコーラゼロが置いてある。
ヤクザのくせにカロリーを気にするとか少しイラッとしながら、飲むかどうか考えやめた。
大体においていくら喉が渇いていても人の飲み残しを飲むのはイヤだ。
そうは言ってらんない時もあるけど、今はまだそうじゃない。

「なぁ俺どれくらい寝てた?」
「丸一日寝てましたよ。正確に言えば24時間36分42秒。
途中で何回か起きてましたけどレム睡眠を何度か繰り返したことを見ると
夢のようなものはその期間に見ていたのでしょう。今の私には眠ると言う行為が必要ないのですが、
私の回路にある人間だった時の記憶が
夢という媒体が起こす精神の安定・不安定さの理屈は理解できると思います。」

こいつ人間だったのか?
「何ソレ?オマエ、前は人間だったの?」
「ハイ。いわゆる一つのサイボーグですね。完全なロボットではなく機械の体と申せばいいのでしょうか。
以前は普通の人間だったと記憶しています。」
「じゃあさっきの銃撃戦で受けた傷で流れた血も本物の血なんだ?」
「そうですね。痛みなどの感覚は全て取り除かれているのでないのですが、
肩のアクチュエータが駆動する際にまだ私の血液が必要らしく肩口の…」
「もういいよ。何かわからねーから。とにかくオマエは半分機械ってことだな」
「いいえ、私の体の1/5は機械になっていますので…」
「もう分かった!もう聞かない。」
面倒だ。色々面倒だ。こいつが機械だろうがサイボーグだろうが、半人半馬だろうがどうでもいいや。

国道14号線を通り、車は西登戸あたりを走っているようだ。
近くのハンバーショップで飯を買いそのまま千葉ポートタワーに入っていった。
飯を食ったら落ち着いた俺はこの先のことを聞いた。
「なぁ、いつになったら未来に行くんだよ。このまま千葉県内をウロウロしてても仕方ないだろう?」
もうヤクザに追われるのも、警察に追われるのもご免だ。
さっさっと未来に行って素晴しい人生をやり直すんだ。きっと未来に行けば俺にも運は回ってくる。
「それとさぁ俺にも拳銃っていうか、武器?そういうのちょうだいよ。こんな生身の抜き身じゃ心配だし」
そう頼むとタイツの男はいつものようにタイツから何かを取り出し俺に渡した。

「何コレ?」
渡されたモノはムチだった。それもSM用の女王様が使うような代物だ。
これで?何すんの?
「さぁいよいよ未来に向かいます。このポートタワーから未来に行くんです」

何だか分からんが、こいつ大丈夫かなぁ…

(続く)