問題は抜けることではない、生えないことだ
廃れる頭部を嘆くばかりではない。
時には理論武装することも忘れない。
そう、薄毛の理論武装だ。
頭髪は常に生えかわっている。
どんなに多毛の人であっても生えかわってるわけで、ひとつの毛髪が何十年とそこに生えているわけではない。
ということは、
わたしたちの頭髪も抜けるところまではいたって正常なのではないか。
その量が多いとか、少ないとかは別にして抜けてもよいのではないか。
ここまで辿り着いたとき、夕暮れのファミレスでわたしたちは安堵するのだ。
抜けてもいいんだ。
まるで「休んでいいんだ」みたいな
気づきによる安らぎ。
「負けてもいいんだ」みたいな背負っていた何かをおろす癒し。
しかしおのずと次へ進まなければならなくなる。
「では、なぜ生えてこないのだ」
抜けても、そのぶん生えてくるから現状維持なのだ。
抜けることに対して、生える量が少ないから問題なのだ。
そして不安とおののきの淵へと落ちていく。
いつものジョナサンにて、午後6時。
(↑写真は、暗い結論に達した時に、それに気付かなかったことにする根本氏。それもひとつの方法だ)